2025年1月18日土曜日

1月26日は年に一度の教会総会です

 ルーテル大垣教会の教会員の皆様

年に一度開催される教会総会は、昨年度の活動や会計決算などを報告し、意見交換を行ないます。また、今年の予算や方針を決める重要な会議です。現住陪餐会員の方々はあらかじめ総会資料をお読みになって、ご出席ください。やむを得ず欠席される方は委任状のご提出をお願いいたします。


ルーテル岐阜教会の新しいメールアドレスです!

 ルーテル岐阜教会のメールアドレスが新しくなりました。

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なお、ルーテル岐阜教会の公式X(旧Twitter)アカウントは、

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また、以下の公式Facebookアカウントにて毎週の週報(礼拝説教の要約あり)やイベント情報などがご覧になれます。

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2023年3月10日金曜日

3月5日の礼拝動画、および3月12日の週報(説教要約掲載)

 3月5日の礼拝動画および3月12日の週報(説教の要約が載せられています)は以下の岐阜ルーテル教会の公式Facebookアカウントよりご覧いただけます。


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2023年2月28日火曜日

2月26日 四旬節第一主日

 2023年2月26日 四旬節第一主日の礼拝

礼拝の動画および週報は以下の公式facebookアカウントよりご覧ください。

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2022年4月3日日曜日

牧師交代のお知らせとご挨拶

 牧師交代のお知らせとご挨拶

皆さま

主のみ名を賛美します。

皆様におかれましては、恵みのうちにご聖務にお励みのことと存じます。

四旬節に入り、キリストの十字架と人類の罪を見つめる季節になりましたが、連日の戦争の報道に人間の罪深さを思い知らされ、平和を祈らされています。

 

さて、表題にありますように、徳弘浩隆牧師がこれまで日本福音ルーテル大垣教会・岐阜教会を兼任しておられましたが、この4月より人事異動となり、この地を離れられることとなりました。

皆様とのお交わりの中での共に歩んだ日々に感謝しながら、また、短い期間での人事異動に複雑な思いもいたしますが、全国の諸教会の実情を鑑み、一番良い道を神様が備えてくださったと信じています。

ここに、これまでのご厚情に感謝申し上げながら、後任牧師の紹介と、良きご指導お交わりをお願いする次第です。

 

日本福音ルーテル大垣教会・岐阜教会

退任:徳弘浩隆 

転任先は、愛知県の次の二教会(兼任)

・日本福音ルーテル高蔵寺教会 487-0033 愛知県春日井市岩成台10-3-5 

・日本福音ルーテル復活教会    461-0023 愛知県名古屋市東区徳川町2303(居住先)

後任:後藤直紀 前任地は東京のルーテル羽村教会

・日本福音ルーテル大垣教会 〒503-0015 岐阜県大垣市林町7-141

・日本福音ルーテル岐阜教会 〒502-0867 岐阜市鷺山南21-43(居住先)


4月10日(日)午後に後藤直紀牧師の就任式を予定しています。詳細が決まればまたご案内申し上げますので、お祈りに覚えていただけましたら幸いです。

神様の祝福が豊かにありますように。

202236


2022年3月26日土曜日

週報・説教メッセージ 20220327

 入院中の母の老人施設への入所先が決まり、急遽帰省し手続きなどしました。弱った母は車いすから私を見つけて、「会えてうれしぃー」と手を握りながら喜んでくれました。ハグしながら再会を懐かしんでいると、「まるでアメリカドラマみたいですねぇ」と看護師さんたちも笑いながら喜んでくださいました。日本ではあまりハグしたり、感情を豊かに出さないのかもしれません。聖書では、まだ見えないくらい遠くにいるのに、帰ってきた息子を見つけ駆け寄って抱き寄せる父親のたとえ話が出てきます。神様は、どんな方なのでしょう?一緒に考えてみましょう。礼拝でお待ちしています。





聖書の言葉 

ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138)より一部

15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。

11b 「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。…


説教「まだ遠く離れていたのに」徳弘師

1. 「会えてうれしぃー」と手を握られて…

忙しい週でしたが、急遽福岡の実家に帰省させていただきました。教会にも、ご病気の方が幾人もおられるのに、牧師が自分の親のことで飛んで帰るのははなはだ気が引けて恐縮でしたが、今の私の家族では私以外に誰も判断や契約、そしてお世話ができる者がいないので、ご容赦ください。

昨年脳梗塞で倒れ手術をし一命をとりとめた母ですが、脳の視力や記憶の部分に障害が残り、リハビリをしていました。これ以上のリハビリの成果は期待できず、といっても自宅に帰ると転倒の危険もあり、老夫婦の生活は危険だとして、老人施設の空きを待っていましたが、急に空いたとの連絡があり、向かいました。

退院手続きをして、理学療法士、看護師、薬剤師からそれぞれ説明を聞き、母と久しぶりに会いました。「あー、浩隆さんが来てくれた。うれしぃー」と手を取って握りしめ、車いすに引き寄せられるのでそのままハグをして再会を喜んでいると、「アメリカドラマみたいですねぇ」と看護師さんたちも笑いながら喜んでくれました。「目もほとんど見えないのに、よくわかったねぇ」と父が言うと、父のほうを見上げて「この方はどなたですか?」と聞いている様子にみんな苦笑い。「ご主人の声が小さくてわかりにくかったけれど、息子さんの声ははっきり聞こえて、わかりやすかったのでしょうね」とのこと。移動先の老人ホームはなんと、大垣教会の施設と似た名前で「あゆみの里」。車いすごと電動リフトで車に載せてもらい、移動し、入所を済ませました。「家に帰りたい」と何度も話していた母が、意外とスムーズに入所してくれたのには、ワーカーさんもびっくりで、「再会でうれしかったから、説明をちゃんと受け入れてくれたんでしょうねぇ」、とのことでした。「家に帰っても危なくて大変だから、個室のホテルみたいな施設で世話をしてもらいながらしばらく過ごしてくださいよ」と説明していました。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書は、ちょうど、帰ってきた息子を、遠くから見つけて迎え入れ、喜ぶ父親のたとえ話です。

「放蕩息子」というタイトルも付けられた有名な話です。親から財産を早く分けてもらい、遠い国に行き無駄遣いして使い果たし、飢饉が来て食べるのにも困り、ユダヤ人が忌み嫌う豚の世話をしながら、そのエサででも飢えを満たしたいと思うほどに落ちぶれ、我に返って改心し、父のもとに帰ってもう一度やり直そうとしたのでした。子どもとしての権利を主張せず、雇人の一人でもよいからと、そんな気持ちでした。

それを、まだ遠く離れていたのに見つけ、喜び迎え入れ、走り寄って首を抱いて喜んだ父親でした。そして、肥えた子牛を屠って宴会をしようというのです。

ここに、神様から離れ、勝手気ままに生きてきて、何もかも失ってしまった人間が、改心して神様のもとに帰ってきたらどれほど神様が喜ばれるかという、神の愛が説明された「世界でもっとも偉大な短編」ともいわれるほど有名になったイエス様のたとえ話でした。本当にわかりやすく、人間の罪と改心、感動的な神様の愛とゆるしが描かれています。私たちも、四旬節に罪を見つめ、神様に立ち返りましょう。

3.振り返り

 しかし、この「短編」にだけ目を奪われてはいけません。なぜこのたとえ話をイエス様がされたのかも大切なところだからです。

 それは、明らかな罪びとが改心するように話したのではなくて、明らかな罪びととともにいるイエス様を批判した当時の宗教指導者たちへの話だったのです。その批判に対して、「神の愛はこれほど大きなものなのだよ。一見立派に生きている人よりも、戻ってくる罪びとが大切なのだよ」とイエス様を批判する人への改心を迫る話だったのです。

 これを聞く私たちは、どこにいるでしょうか?放蕩しているままの人? 放蕩したけれど改心した人?あるいは、罪びとと一緒にいるイエス様を批判する人?

4. 勧め

連日の戦争のニュースで心を痛めます。一方的に誰かを悪者にして、何とか解決しないのかと憤る気持ちもわいてきます。しかし、上からすべてを見ておられる神様の目はどうでしょう? 私たちは、加害者と思われる人を非難するだけでなく、人間の共通の罪を嘆き、彼らのことも祈ってあげ、とりなしてあげたいと思います。そして、解決の道を開き、苦しみの中にいる人に支援の手を届けたいと思わされています。敵地に連行されたり、戦火を逃れて他国にわたる人たちを見ます。そこに、誰よりも、「自分の家に帰りたい人たち」の嘆きも見るからです。ともに悔い改め、助け合いましょう。神様の愛の前に、一緒に立ち戻りましょう。まだ遠くにいるのに、ちゃんと見つける神様は、ずっと見ていてくれているからに違いありません。


2022年3月19日土曜日

週報と説教メッセージ 20220320

春のような陽気、そして雨。感染病と戦争のニュース。何もできない無力さを感じます。私と違って理系なのにヴァイオリンを習ったり文学青年だったけれど電機メイカーに勤める兄から「大事にしていたロシア文学の本を捨てようかと迷っています」とメイルが来ました。ロシア文学には人間の罪深さを描いたものも多いでしょう。文系なのにパソコンやITが好きな私は牧師になりネットで人の罪と神の愛による和解と平和実現を訴えています。皆心が揺れ、つらい日々ですが、できることをして、何かと決別して、何かを始めるときなのかもしれません。静かに、祈り、一週間を始めましょう。






聖書の言葉 

ルカ13: 1~ 9 (新134)

13: 1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」


説教「今年もこのままに…」徳弘師

1. 3年経つのに実らないといわれ…

実は、今日の聖書の福音書のたとえ話の中のセリフはびっくりする言葉から始まりました。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。」と言われているからです。ブラジルから帰国して3年、この教会に呼んでいただいていろいろなことをやってきたつもりですが、「3年経つけれど、いったい何ができただろうか」と自問自答しながら、引っ越しの準備をしました。そんな中、今日の聖書のたとえ話で3年経つけれど一つも実らないイチジクの木の話を聞いて、「いくら待っても結果が出ない。もうだめだ、切り倒してしまえ」と神様に叱られている気さえしました。

それは少しこじつけで、考えすぎかもしれませんが、私たちの人生にも、こういうときがあると思います。

一生懸命やっても自分は何をやってきたのかと自問自答するとき。何をやってもうまくいかず、失敗したときに、自分に嫌気がさすとき。突然の災難やトラブルに出くわす、そんな時に、何か悪いことをしたから神様から罰せられているのか、と神様との間で原因を探すことがあるかもしれません。

そんな出来事に対して、イエス様はどうとらえるべきか、そしてイエス様がどう解決してくださろうとしてくださったか、その答えを聞いていかねばなりません。聖書を一緒に学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書では、何人かの人たちとの問答から始まっています。過ぎ越しの祭りで犠牲を捧げるのと同じ時期に、ピラトの命令でガリラヤ人が殺されたのだろうと考えられていますが、それについての問答です。そして続いて、エルサレムの神殿の地下を通る水道の出口に当たる池を守る砦の塔が倒れて犠牲者が出たという事件があったようですが、そのことについてのやり取りです。当時のユダヤを苦しめていたローマ帝国の提督から殺された人々、そして災害で塔の下敷きになって死んだ人たち、彼らがなぜそうなったかと人々は考えます。たいがい、私たちは、何か悪いことをしたから神に罰されたのではないかと、あれこれと、原因を探します。

しかし、今日のイエス様はきっぱりとそれを否定されたのです。「ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」と。ひどい目にあった人たちや、災難で急に命を落とした人たちが、なにか神様の前に悪いことをしていたから神の罰が当たったのだと思うときには、そんな目に合わなかった自分は正しい生き方をしているから救われたのだと、自分を肯定する気持ちがあるものかもしれません。彼らは悪いことしてきたから罰せられたのであって、そうなっていない自分は神様に認められていると、優越感を感じているのかもしれません。

そんな私たちにイエス様ははっきりと言われます。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。

イエス様は直接的な因果関係はないことを教えられました。そして、幸いに災いを逃れたからと言って、自分たちは災いに遭った人々よりも罪人ではないのだと自己満足に陥ってはなりません。

3.振り返り

神様の目から見たら等しく罪びと、五十歩百歩であり、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とイエス様に宣言されています。では今日の聖書から何を聞き取っていけばよいのでしょうか?人類はみな罪びとだから救いがないというのが結論なのでしょうか。

 今日は最後の礼拝ですが、こんなものを用意しました。先日大垣教会の灰の水曜日の礼拝で紹介しましたが、少し作業をしていただきながら、今日の神様からの勧めの言葉として心にとめていきましょう。

 人は罪を犯し、自分の心の中でも、家族や人との間でも、そして集団や国というレベルでも、葛藤や争いがあります。神様の目から見れば失敗作のようなもので、罪の報酬は死であると聖書は断言します。しかし、神様は愛の方であり、罪びとたちを救おうと、預言者を使わして語り掛けてこられました。

「もう切り倒してしまえ」というのが神様の裁きの厳しい言葉とするなら、「今年もこのままにしてください。もう少し待ってあげてください」というのが神様の愛の気持ち、イエス様のお気持ちかもしれません。そして、「切り倒すなら代わりに自分を切り倒してください」と、神様の前に立ちはだかって私たちをかばい、自ら代わりにと進み出た先に十字架があるのです。

4. 勧め

イエス様の十字架の死、これを通して、私たちは本当に悔い改めさせられ、産みかえられるという不思議な方法を神様は取られました。奇跡で自動的に罪びとが信仰者や善人に変えられるのではありません。

 自分の代わりに死んでくれた方の十字架を見上げるときに、今までの自分も切り捨てていく苦しい作業の中で、少しずつ、つくりかえられていく、それが教会生活や信仰生活です。この紙を折りたたんで、切り取った後に出てくる十字架を見上げて、生きていきましょう。復活祭までの四旬節の間、特に静かに悔い改め、恵みの中に生まれ変わりましょう。