2022年4月3日日曜日

牧師交代のお知らせとご挨拶

 牧師交代のお知らせとご挨拶

皆さま

主のみ名を賛美します。

皆様におかれましては、恵みのうちにご聖務にお励みのことと存じます。

四旬節に入り、キリストの十字架と人類の罪を見つめる季節になりましたが、連日の戦争の報道に人間の罪深さを思い知らされ、平和を祈らされています。

 

さて、表題にありますように、徳弘浩隆牧師がこれまで日本福音ルーテル大垣教会・岐阜教会を兼任しておられましたが、この4月より人事異動となり、この地を離れられることとなりました。

皆様とのお交わりの中での共に歩んだ日々に感謝しながら、また、短い期間での人事異動に複雑な思いもいたしますが、全国の諸教会の実情を鑑み、一番良い道を神様が備えてくださったと信じています。

ここに、これまでのご厚情に感謝申し上げながら、後任牧師の紹介と、良きご指導お交わりをお願いする次第です。

 

日本福音ルーテル大垣教会・岐阜教会

退任:徳弘浩隆 

転任先は、愛知県の次の二教会(兼任)

・日本福音ルーテル高蔵寺教会 487-0033 愛知県春日井市岩成台10-3-5 

・日本福音ルーテル復活教会    461-0023 愛知県名古屋市東区徳川町2303(居住先)

後任:後藤直紀 前任地は東京のルーテル羽村教会

・日本福音ルーテル大垣教会 〒503-0015 岐阜県大垣市林町7-141

・日本福音ルーテル岐阜教会 〒502-0867 岐阜市鷺山南21-43(居住先)


4月10日(日)午後に後藤直紀牧師の就任式を予定しています。詳細が決まればまたご案内申し上げますので、お祈りに覚えていただけましたら幸いです。

神様の祝福が豊かにありますように。

202236


2022年3月26日土曜日

週報・説教メッセージ 20220327

 入院中の母の老人施設への入所先が決まり、急遽帰省し手続きなどしました。弱った母は車いすから私を見つけて、「会えてうれしぃー」と手を握りながら喜んでくれました。ハグしながら再会を懐かしんでいると、「まるでアメリカドラマみたいですねぇ」と看護師さんたちも笑いながら喜んでくださいました。日本ではあまりハグしたり、感情を豊かに出さないのかもしれません。聖書では、まだ見えないくらい遠くにいるのに、帰ってきた息子を見つけ駆け寄って抱き寄せる父親のたとえ話が出てきます。神様は、どんな方なのでしょう?一緒に考えてみましょう。礼拝でお待ちしています。





聖書の言葉 

ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138)より一部

15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。

11b 「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。…


説教「まだ遠く離れていたのに」徳弘師

1. 「会えてうれしぃー」と手を握られて…

忙しい週でしたが、急遽福岡の実家に帰省させていただきました。教会にも、ご病気の方が幾人もおられるのに、牧師が自分の親のことで飛んで帰るのははなはだ気が引けて恐縮でしたが、今の私の家族では私以外に誰も判断や契約、そしてお世話ができる者がいないので、ご容赦ください。

昨年脳梗塞で倒れ手術をし一命をとりとめた母ですが、脳の視力や記憶の部分に障害が残り、リハビリをしていました。これ以上のリハビリの成果は期待できず、といっても自宅に帰ると転倒の危険もあり、老夫婦の生活は危険だとして、老人施設の空きを待っていましたが、急に空いたとの連絡があり、向かいました。

退院手続きをして、理学療法士、看護師、薬剤師からそれぞれ説明を聞き、母と久しぶりに会いました。「あー、浩隆さんが来てくれた。うれしぃー」と手を取って握りしめ、車いすに引き寄せられるのでそのままハグをして再会を喜んでいると、「アメリカドラマみたいですねぇ」と看護師さんたちも笑いながら喜んでくれました。「目もほとんど見えないのに、よくわかったねぇ」と父が言うと、父のほうを見上げて「この方はどなたですか?」と聞いている様子にみんな苦笑い。「ご主人の声が小さくてわかりにくかったけれど、息子さんの声ははっきり聞こえて、わかりやすかったのでしょうね」とのこと。移動先の老人ホームはなんと、大垣教会の施設と似た名前で「あゆみの里」。車いすごと電動リフトで車に載せてもらい、移動し、入所を済ませました。「家に帰りたい」と何度も話していた母が、意外とスムーズに入所してくれたのには、ワーカーさんもびっくりで、「再会でうれしかったから、説明をちゃんと受け入れてくれたんでしょうねぇ」、とのことでした。「家に帰っても危なくて大変だから、個室のホテルみたいな施設で世話をしてもらいながらしばらく過ごしてくださいよ」と説明していました。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書は、ちょうど、帰ってきた息子を、遠くから見つけて迎え入れ、喜ぶ父親のたとえ話です。

「放蕩息子」というタイトルも付けられた有名な話です。親から財産を早く分けてもらい、遠い国に行き無駄遣いして使い果たし、飢饉が来て食べるのにも困り、ユダヤ人が忌み嫌う豚の世話をしながら、そのエサででも飢えを満たしたいと思うほどに落ちぶれ、我に返って改心し、父のもとに帰ってもう一度やり直そうとしたのでした。子どもとしての権利を主張せず、雇人の一人でもよいからと、そんな気持ちでした。

それを、まだ遠く離れていたのに見つけ、喜び迎え入れ、走り寄って首を抱いて喜んだ父親でした。そして、肥えた子牛を屠って宴会をしようというのです。

ここに、神様から離れ、勝手気ままに生きてきて、何もかも失ってしまった人間が、改心して神様のもとに帰ってきたらどれほど神様が喜ばれるかという、神の愛が説明された「世界でもっとも偉大な短編」ともいわれるほど有名になったイエス様のたとえ話でした。本当にわかりやすく、人間の罪と改心、感動的な神様の愛とゆるしが描かれています。私たちも、四旬節に罪を見つめ、神様に立ち返りましょう。

3.振り返り

 しかし、この「短編」にだけ目を奪われてはいけません。なぜこのたとえ話をイエス様がされたのかも大切なところだからです。

 それは、明らかな罪びとが改心するように話したのではなくて、明らかな罪びととともにいるイエス様を批判した当時の宗教指導者たちへの話だったのです。その批判に対して、「神の愛はこれほど大きなものなのだよ。一見立派に生きている人よりも、戻ってくる罪びとが大切なのだよ」とイエス様を批判する人への改心を迫る話だったのです。

 これを聞く私たちは、どこにいるでしょうか?放蕩しているままの人? 放蕩したけれど改心した人?あるいは、罪びとと一緒にいるイエス様を批判する人?

4. 勧め

連日の戦争のニュースで心を痛めます。一方的に誰かを悪者にして、何とか解決しないのかと憤る気持ちもわいてきます。しかし、上からすべてを見ておられる神様の目はどうでしょう? 私たちは、加害者と思われる人を非難するだけでなく、人間の共通の罪を嘆き、彼らのことも祈ってあげ、とりなしてあげたいと思います。そして、解決の道を開き、苦しみの中にいる人に支援の手を届けたいと思わされています。敵地に連行されたり、戦火を逃れて他国にわたる人たちを見ます。そこに、誰よりも、「自分の家に帰りたい人たち」の嘆きも見るからです。ともに悔い改め、助け合いましょう。神様の愛の前に、一緒に立ち戻りましょう。まだ遠くにいるのに、ちゃんと見つける神様は、ずっと見ていてくれているからに違いありません。


2022年3月19日土曜日

週報と説教メッセージ 20220320

春のような陽気、そして雨。感染病と戦争のニュース。何もできない無力さを感じます。私と違って理系なのにヴァイオリンを習ったり文学青年だったけれど電機メイカーに勤める兄から「大事にしていたロシア文学の本を捨てようかと迷っています」とメイルが来ました。ロシア文学には人間の罪深さを描いたものも多いでしょう。文系なのにパソコンやITが好きな私は牧師になりネットで人の罪と神の愛による和解と平和実現を訴えています。皆心が揺れ、つらい日々ですが、できることをして、何かと決別して、何かを始めるときなのかもしれません。静かに、祈り、一週間を始めましょう。






聖書の言葉 

ルカ13: 1~ 9 (新134)

13: 1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」


説教「今年もこのままに…」徳弘師

1. 3年経つのに実らないといわれ…

実は、今日の聖書の福音書のたとえ話の中のセリフはびっくりする言葉から始まりました。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。」と言われているからです。ブラジルから帰国して3年、この教会に呼んでいただいていろいろなことをやってきたつもりですが、「3年経つけれど、いったい何ができただろうか」と自問自答しながら、引っ越しの準備をしました。そんな中、今日の聖書のたとえ話で3年経つけれど一つも実らないイチジクの木の話を聞いて、「いくら待っても結果が出ない。もうだめだ、切り倒してしまえ」と神様に叱られている気さえしました。

それは少しこじつけで、考えすぎかもしれませんが、私たちの人生にも、こういうときがあると思います。

一生懸命やっても自分は何をやってきたのかと自問自答するとき。何をやってもうまくいかず、失敗したときに、自分に嫌気がさすとき。突然の災難やトラブルに出くわす、そんな時に、何か悪いことをしたから神様から罰せられているのか、と神様との間で原因を探すことがあるかもしれません。

そんな出来事に対して、イエス様はどうとらえるべきか、そしてイエス様がどう解決してくださろうとしてくださったか、その答えを聞いていかねばなりません。聖書を一緒に学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書では、何人かの人たちとの問答から始まっています。過ぎ越しの祭りで犠牲を捧げるのと同じ時期に、ピラトの命令でガリラヤ人が殺されたのだろうと考えられていますが、それについての問答です。そして続いて、エルサレムの神殿の地下を通る水道の出口に当たる池を守る砦の塔が倒れて犠牲者が出たという事件があったようですが、そのことについてのやり取りです。当時のユダヤを苦しめていたローマ帝国の提督から殺された人々、そして災害で塔の下敷きになって死んだ人たち、彼らがなぜそうなったかと人々は考えます。たいがい、私たちは、何か悪いことをしたから神に罰されたのではないかと、あれこれと、原因を探します。

しかし、今日のイエス様はきっぱりとそれを否定されたのです。「ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」と。ひどい目にあった人たちや、災難で急に命を落とした人たちが、なにか神様の前に悪いことをしていたから神の罰が当たったのだと思うときには、そんな目に合わなかった自分は正しい生き方をしているから救われたのだと、自分を肯定する気持ちがあるものかもしれません。彼らは悪いことしてきたから罰せられたのであって、そうなっていない自分は神様に認められていると、優越感を感じているのかもしれません。

そんな私たちにイエス様ははっきりと言われます。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。

イエス様は直接的な因果関係はないことを教えられました。そして、幸いに災いを逃れたからと言って、自分たちは災いに遭った人々よりも罪人ではないのだと自己満足に陥ってはなりません。

3.振り返り

神様の目から見たら等しく罪びと、五十歩百歩であり、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とイエス様に宣言されています。では今日の聖書から何を聞き取っていけばよいのでしょうか?人類はみな罪びとだから救いがないというのが結論なのでしょうか。

 今日は最後の礼拝ですが、こんなものを用意しました。先日大垣教会の灰の水曜日の礼拝で紹介しましたが、少し作業をしていただきながら、今日の神様からの勧めの言葉として心にとめていきましょう。

 人は罪を犯し、自分の心の中でも、家族や人との間でも、そして集団や国というレベルでも、葛藤や争いがあります。神様の目から見れば失敗作のようなもので、罪の報酬は死であると聖書は断言します。しかし、神様は愛の方であり、罪びとたちを救おうと、預言者を使わして語り掛けてこられました。

「もう切り倒してしまえ」というのが神様の裁きの厳しい言葉とするなら、「今年もこのままにしてください。もう少し待ってあげてください」というのが神様の愛の気持ち、イエス様のお気持ちかもしれません。そして、「切り倒すなら代わりに自分を切り倒してください」と、神様の前に立ちはだかって私たちをかばい、自ら代わりにと進み出た先に十字架があるのです。

4. 勧め

イエス様の十字架の死、これを通して、私たちは本当に悔い改めさせられ、産みかえられるという不思議な方法を神様は取られました。奇跡で自動的に罪びとが信仰者や善人に変えられるのではありません。

 自分の代わりに死んでくれた方の十字架を見上げるときに、今までの自分も切り捨てていく苦しい作業の中で、少しずつ、つくりかえられていく、それが教会生活や信仰生活です。この紙を折りたたんで、切り取った後に出てくる十字架を見上げて、生きていきましょう。復活祭までの四旬節の間、特に静かに悔い改め、恵みの中に生まれ変わりましょう。


2022年3月12日土曜日

週報とメッセージ 20220313


聖書の言葉 

ルカ13:31~35 (新136)


13: 31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 33だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 35見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」



説教「これはあなたのためなのに」徳弘師

1. 一度は言われたことがある言葉…

「あなたのことを思っていっているのよ」という言葉、誰もが一度は言われたことがあるでしょう。そして、誰もが一度以上言ったことがあるのではないでしょうか?言われたのは子供のころ、親から?そして、 言ったことがあるのは、親になって、または職場で後輩に向かってなどかもしれませんね。相手のことを思えばこそ、こんなに丁寧に、時には一生懸命に、また、時にはお節介にきびしく、言った言葉かもしれません。

今日の聖書にも似た言葉と受け取れる言葉が出てきます。そして、それに対して、反対に同じ言葉を言い返されているようにも聞こえます。イエス様に対してと、イエス様の返す言葉にです。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書では、ファリサイ派の人々がイエス様に近寄ってきて言ったのです。「ここから去ったほうがいいですよ。ヘロデ王があなたを殺そうとしています」という具合です。それに対して、イエス様の反応は、「ああ、ありがとう。ご親切に」という言葉ではありませんでした。イエス様は、冷たく厳しい返答をされます。それは、ヘロデ王に対して冷たい返事を伝えるようにとのことでもありますが、ファリサイ派の人たちにも冷たく答えたようにもあります。

イエス様はガリラヤを離れてエルサレムに向かう旅の途中でした。ルカによる福音書は大きく3部構成で、1)誕生からガリラヤでの教えや働き、そして2)エルサレムへの旅の途中で教え、最後に3)エルサレムに入っていき最後の週を過ごすという形になっています。その旅の途中。ヨルダン川の東側を旅していたとしたら、ヘロデの領地を通過しているところだと考えられます。「ヘロデが殺そうとしているからこのヘロデの領地から去った方がいいですよ」と教えに来たのはファリサイ派の人たちでした。イエス様の身を案じてくれている様子ですが、実は自分やヘロデ王からしたら面倒なイエス様を追い払うためにファリサイ派の彼らが自主的に、またはヘロデの指金で追い出そうとしたのかもしれないと考えられています。

それに対して、イエス様は冷たく答えるのです。「自分はいつでも教え癒し、そしてやがて苦しみを受けることになっている。」「私は自分の道を進むのだ」と。

3.振り返り

ファリサイ派の人たちのイエス様の身を案じたように聞こえるアドバイスは、そうかもしれないし、自分にとって邪魔だったからかもしれないし、ヘロデの差し金で言わされていたのかもしれません。いや、それらがすべて交じり合っていたのかもしれません。人間の心の中は、それほど明快で簡単なものではなく、色々なものがうごめいているのは私たちも知っています。私たちが、人にかける言葉はどんな動機でしょうか?「あなたのことを思っているのだよ」という言葉の。本当にその人のことを思っている気持ちもあるでしょう。しかし、自分が果たせなかった夢をこどもや部下に押し付けていることもあるかもしれません。あるいは世間体や競争心など別の事情で一生懸命に急き立てている面もあるかもしれません。その動機を良く見極め、更に上から見ておられる神様の視線が大事です。

それは、次の言葉からわかります。イエス様の答えは明快でした。「神様の御心を生きて、その計画通りに生きる」ことと、「今日も明日もその次の日も分の道を進むのだ」と。私たちが大切にするべきことは、自分の思いではなく、神様の計画と、ただそれをひたすら歩むことなのです。

その動機は、ここで分かります。「あなたのことを思って言っているのですが」というファリサイ派の人たちに対して。「私の方が、あなたのことを思ってこそ、何度あなたたちを集め守ろうとしたことだろうか」と。

仮にファリサイ派の人たちの言葉を善意と受け止めたとしても、それ以上に、イエス様は善意で、いや、神の愛をもって、彼らを心配し、嘆いておられるのです。そして、それを分かってくれずについてこなかった彼らのためにも、「私は自分の道を進まねばならない」のです。どこに進むのでしょうか?

それは、これから進んでいくエルサレムで待ち受けている出来事。最後の週の出来事と、彼らのために十字架で犠牲になっていかれるという事なのです。

4. 勧め 

 私たちは、いろんな人のことを気遣うでしょう。そして自分自身も大切であれこれします。しかし、それらはたいていお門違いな努力なのかもしれません。神様の目から見れば、そんなことをしても何にもならないのに、心配し、努力し、ぶつかり、頑張っているけれども、方向が間違っている。無駄な努力と失敗ばかり繰り返している。そんなことかもしれません。

そんな私たちのすべてをご存じで、私たちのことを心配し、先回りして十字架の道へと急がれるイエス様の愛を知り、この方に従って生きることが、実は一番大切なのです。「これはあなたのためなのに」と誰かに言う時、この自分に対してそう言って待っておられる神様の視線を思い出しましょう。憎しみや暴力、報復の連鎖を止めて、平和を実現するためにも、私たちの罪と神の愛を知り、生きていきましょう。

2022年3月5日土曜日

週報と礼拝メッセージ 20220306

 今日から四旬節で、キリストの十字架と人間の罪を見つめ、悔い改め静かに祈る季節です。否応なしに、人間の罪深さを見つめさせられる戦争を見せつけられます。自分の心や自分たちのしてきたことも見つめ悔い改め、愛と平和を実現するものになりたいと思わされます。教会の礼拝でお会いしましょう。



聖書の言葉 

ルカ4: 1~13 (新107)

4: 1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


説教「心まよいゆくをやめて」徳弘浩隆師

1.「四旬節」の旬は中国語で「10日間」の意

今日から四旬節。キリストの十字架の苦しみを見つめながら、私たちの心の中にある罪深さも見つめ、悔い改める季節です。聖書は、「イエス様が40日断食をしている時に悪魔から誘惑を受け、それを退けられた」という出来事が伝えられています。ノアの洪水も40日40夜だったと書かれていますし、40という数字は意味深く、私たちも40日間、静かに悔い改める日々を送ります。四旬節の「旬」は、この字が中国語で「10日間」の意味だからだそうです。これから始まる40日、悪の誘惑を断ち切り、静かに悔い改める日々が始まります。


2.聖書を学びましょう

イエス様は罪人を救うためにこの世に降り、人となってくださいました。そして、キリストとしての公生涯を始める前に、このような悪魔の誘惑を受け、それに打ち勝たれたとの記事が聖書に残っているのです。

子なる神としてのイエス様は、何の苦労もなく奇跡で人々の心を変え、世界を変えることができるかというと、論理的には可能かもしれません。しかし、「エイッ」といわれ、「アッ」という間に私たちが変えられるなら、それはそれはもはや本当の自分、本当の私たちではなくなっているでしょう。よく映画であるように、記憶をなくしたり、奇妙に感じるほど「別人」になってしまうかもしれません。

今までの自分を生きながら、罪を持たない本当の神の子に私たちも変わるには、「今までを引きずりながら、試練や鍛錬を通して、生まれ変わらせていただかないと」、今までの自分でもなくなるはずだと、私は思わされます。キリストも、奇跡的に悪魔を退け、人々や世界を奇跡で変えなかった理由は、そこにあるでしょう。イエス様ご自身が、人間の立場で苦しみ、もがき、泣き、笑いしながら、悪魔を退け、そしてやがて罪深い人間を奇跡的に改造するのではなく、彼らが心の底から今までの罪を見つめ、改心するという特別な方法をとる必要があったのだと思わされます。そこに、キリストの十字架と、私たちの人生の苦難の意味があります。

イエス様は、悪魔の巧みな誘惑を、聖書の言葉で反論し、悪魔を退けました。私たちに対する今日のメッセージの一つは、ここにあるでしょう。神のことばが何よりも拠り所だということです。


3.振り返り

私たちの人生にも、迷いや、誘惑がたくさんあります。教会のある方が言われた言葉に、「悪魔は悪魔の顔をしてこないんですよ…、ハイ」という言葉があります。苦笑いをしながら、そう謙虚に言われる言葉は、体験も含めたご苦労の中で語られ、納得させられる言葉です。そういえば、「振り込め詐欺」も、「傍から見れば騙されているのではないか」と心配になっても、「当事者は真剣ですし心配で仕方がなく疑わない」ということになってしまうようですね。「悪魔のふりをしない悪魔」を見分けなければなりません。

そこでもう一つのことを考えなければなりません。「悪魔のような人の中に自分を見ることはむつかしい」または「自分の中の悪魔を見つけることはむつかしい」ということです。人を責めるのは簡単です。事件や戦争のニュースを見て、ひどい行いをする人を見て、「なんてひどい奴だ」と思うのも自然にできることです。しかし、その、他者が持つ「悪魔性」ともいえる一面を、自分の中にも見つけることができる、見つめることができるのは、大変難しいことです。ましてそれを、謙虚に、勇気をもって、認め、また他者にもそれを公言できることは、大変な事です。素直に謝ることがどれほど難しいかは、誰もが知っていることです。

 今の私に悪魔の誘惑があるとすれば、「それを認めたくない、見つめたくない」という私たちの心こそが、最大の誘惑かもしれません。どうしたら、それを認めることができるでしょうか?そこにも、神様の言葉が必要です。「神を愛す」「人を愛す」「うそをつくな」「寄留の民を愛せよ」などという神の言葉を、自分自身に問うてみるのです。

 神のことばは、いじめられるときにお守りのように自分を力づけて守ってくれるだけの物ではありません。自分の心の中を見つめ、神様の言葉に背き、人を傷つけていたということをも浮き彫りにしてくれます。


4. 勧め 

今回の戦争のニュースはとても難しく、重くのしかかってきます。BBCのドイツ人へのインタビューがありました。「他国に侵入し蹂躙している姿は、かつてのヒトラーやドイツのように思える。だから私は難民の人をできるだけ助けたいと思うのです」。日本に住む私も日本の歴史上の過ちを思い、詫びたくなります。「悪人」のように見える人を見て、悪人を責めるのは簡単ですが、そこに「自分」を見つけ、悔い改め、人を愛する生き方ができるよう祈りたいと思います。迷いゆくのをやめて、自分の外と内の悪を退け、平和を作り出すのは、そこから始まるように思わされます。いのり。 


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超教派の祈りの集会・世界祈祷日の直前、今回の準備国から祈りの言葉が届きました。ともに祈りましょう。

<平和の祈り>


過去から現在へ、そして未来の神よ。

私たちの思いと祈りは、恐怖と苦悩の中にあるウクライナとその周辺諸国の姉妹、兄弟たちとともにあります。

また、世界の中で、紛争、情勢不安、抑圧がある他のすべての地域のために祈ります。

紛争と戦争の両者に、そして私たちの中にも罪があることを覚え、悔い改め、それぞれのために祈りを捧げます。

私たちは祈ります、和解が憎しみを克服することを、平和が戦争に打ち克つことを、希望が絶望に取って代わることを。そして、この地域に対するあなたの計画が成就するように祈ります。

神さま、あなたの憐れみのうちに、私たちの祈りを聞いてください。アーメン


(WDPイングランド、ウェールズ、北アイルランドによる 2022年2月25日版を徳弘牧師が一部追加改変)



2022年2月26日土曜日

週報と説教メッセージ 20220227

戦争が始まり、心の中の闇を見せつけられます。真っ黒な闇。今日の聖書は、イエスキリストが真っ白に輝いたという山上での出来事が読まれます。真っ黒と真っ白。ブラックアウトとホワイトアウト。いろいろいっしょに考えてみませんか?そして、平和な世界のために、一緒に祈りましょう。行動もしましょう。礼拝でお待ちしています。


聖書の言葉 ルカ9:28~43a (新123)より
9: 28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。 29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。 31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。 32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。 33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。 34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

説教「真っ白になって/ White Out」徳弘浩隆師
1. ホワイトアウトという言葉
今年は寒い日や雪の積もった日が多かったですね。九州生まれで京都や東京、そしてブラジルで働いてきた私には、初めての本格的な積雪で珍しく楽しい面もありましたが、関ヶ原や垂井、大垣の皆さんにはもう、面倒なことでしかないかもしれません。家から車を出せずに、教会に集まれなくて大変だった日曜日もありました。お見舞い申し上げます。
そんな私も、先月母親の介護手続きで九州へ帰り、大阪・京都・滋賀を通って岐阜に車で帰り着こうという時、滋賀で予想外の大雪でコワい思いもしました。ニュースで見るほどではありませんが、高速道路の前方が降りしきる雪で見えにくくなったからです。その後も何度かの豪雪で、交通事故も多く、ニュースが注意を呼び掛けていたのは、「ホワイトアウト」という言葉でした。何かに驚いて「頭の中が真っ白になる」ということもありますが、これは目の前が真っ白になって、何も見えず、急に現れた前の自動車に衝突し、それが連続して起こるという事故もあり、気の毒な事でした。

2.聖書を学びましょう
今日の聖書は、イエス様が山に登って祈られていると、そのお姿が真っ白になったという出来事です。
「この話をしてから八日ほどたったとき」という書き出しですが、どんなシチュエーションだったか、少し前を読まねばなりません。
イエス様の宣教活動でたくさんの人が教えを聞き、弟子も訓練され、その民衆の心が集まっている噂にヘロデ王は心配になり、人々は奇跡を見、満たされ、弟子のペトロがついに「イエス様がキリスト・メシアである」と理解し告白した後でした。
ここで、イエス様の生涯は、大きな転機を迎えます。みんなが期待した「栄光の王様」ではなく、一番苦しい者と共に生き人々のために「裏切られ捨てられ死んでいく苦難の道」へと舵を切ることになっていくのです。
イエス様は3人の弟子だけを連れて山に登り、祈られます。「するとイエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」のです。そしてペトロ達弟子は、ユダヤ教で律法を代表するモーセと、預言者の代表ともいえるエリアがイエス様と一緒にいるのを見ました。
神の子でありながら、いつも貧しく虐げられている側の人々と共におられたイエス様ですが、この日は天に・神様に「近い」山に登り、ユダヤ教の聖書(いまの旧約聖書)の律法が実現し、預言が成就することを暗示する出来事が起こったのです。
これから向かっていく、イエス様の苦しみ、十字架の死は、予定外のことではなく、失敗でもなく、この方において神の律法が実現し、預言が成就していくことだと示されます。これが、不思議な方法でですが、私たちが悔い改めと赦しをいただく唯一の道なんだということを教えられます。
この日は、「変容主日」といわれ、イエス様のお姿が変わられた日だといわれますが、実は、これが本当の栄光に輝く罪のないイエス様のお姿であり、それを垣間見た瞬間ともいえるでしょう。この方に学び、従って生きていくなら、私たちの真っ黒な心の中や、失敗や涙にまみれた人生は、真っ白にされていくことも暗示しています。

3.振り返り
 私たちの人生はどうでしょうか?イエス様の真っ白なお姿を見て驚き、イエス様をメシアと理解し信仰を告白したばかりのペトロでしたが、彼の頭はそれこそ真っ白になり、理解できず、頓珍漢なことを言ってしまいます。「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」と聖書はその時のペトロの混乱ぶりや場違いな言葉を正直に伝えています。
 私たちは、どんな存在でしょうか? 悔い改めて、洗礼を受けて、聖書を学び、教会で奉仕もしても、依然としてまだ、「罪をゆるされた罪人」の集まりです。
 嫌なこともあり、失敗もし、罪深い日々と行ったり来たりすることもあります。傷つけてしまったり、傷ついて誰かを憎んだり疎んだりもします。
 私たちはどうしたら、イエス様のように、真っ白にしていただけるのでしょうか?心の中の闇を消し去ってもらえるのでしょうか?
 ホワイトアウトという言葉の反対は、ブラックアウトという言葉があります。停電して真っ暗になることもそうですが、書類などを真っ黒に塗ってしまうことも意味します。そういえば、政府がいやいや公開した重要書類が、真っ黒に塗りつぶされて、野党議員や被害者が「ほとんど真っ黒じゃないですか!」と批判する映像を見たことがあるでしょう。
 しかし実は、あれを私たちは笑うことができません。私たちも同じようにして生きているからです。心の中に、上から真っ黒に塗りつけて、見えないようにしてしまっている事柄がいくつあるでしょうか。神様から見たら、「表面は正しく一生懸命に生きているように見えるけれど、真っ黒に塗りつぶしているところばっかりじゃないかい?」と言える状態です。どうしたらいいでしょうか?

4. 勧め 
それは、聖書によると、「キリストの血によって洗ってもらう」しかないということです。
真っ黒に塗りつぶした心を、真っ赤な血で洗うとどうなるでしょう。もっとひどくなって何も見えなくなりそうですね。しかし、聖書はこういいます。
「だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って」いるけれど、彼らは「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」とヨハネの黙示録7章にあります。
キリストの苦難の十字架の血は、私たちが流すべき死に値する罪の代価でした。神様の目から見たら生きている価値がない、罪深いものでしたが、キリストの言葉を学び、悔い改めて、新しくされ、いっしょに生きていくことで、帳消しにしてもらい、日々、新たに作り変えてもらえるのです。
そんな、十字架を見つめる季節が始まります。四旬節は、自分の罪を見つめ、身代わりに苦しまれたイエス様を思い、悔い改め静かに生きる期間です。
今週水曜日の、灰の水曜日から始まります。憎しみ会い、殺し合いをTVで見せつけられる苦しい毎日ですが、平和の道具となれるよう、自分の罪を悔い改め、生きていきましょう。
神様は、私たちの罪を、ブラックアウトしてごまかすのではなく、イエス様の犠牲により、ホワイトアウトして、何も罪が見えないように生まれ変わることをしてくださいます。

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今日の一枚の写真
祈りと参加を
   

ルーテル世界連盟(LWF)は3月25日に「戦火の停止と国際法の尊重」を訴えた声明を出し、ウクライナの人々やそれを支援するメンバー教会のために募金を始めました。LWF事務局長Anne Burghardt牧師はソ連崩壊で独立を回復したエストニア共和国のエストニア福音ルーテル教会出身です。この募金に応えて日本のルーテル教会でも始まるでしょうが、まず個人的に少し寄付を送りました。参加する人数や地域の広がりも、大きな励ましになるでしょう。ウクライナのドイツ人・ルーテル教会や近隣のポーランド、スロバキア、ルーマニア、ハンガリーなどのルーテル教会が緊急キットや必需品、シェルターや基本医療品、宗教的・精神的サポートに着手し、平和実現のための交渉活動などにも取り組んでいます。対話と支援、そして平和実現を祈りたいと思います。


 

2022年2月19日土曜日

週報・説教メッセージ20200220

ブラジルの集会所で英語や音楽を教えていた中の一人、ブラジル人のTiago(チアゴ)は14歳くらいで、ちょっとわがままで難しい子。ある日帰り際に彼に会い、私は手を振って言いました。「Tiago, Te amo!(チアゴ、チアモ!)」。とっさに口を突いて出たダジャレで「Tiago, I love you!」という意味。車のスタッフの大人たちは大笑い、Tiagoも照れたような顔をして、「Tchau Senasei(チャオは、さよならの意味)」と手を振ってくれました。僕らは人を愛するときに、どんな理由があるでしょうか?難しい人を愛すること、ましてや敵を愛することができるでしょうか?教会で一緒に考えてみましょう。明日もYoutubeとFacebookでも中継します。





聖書の言葉 

ルカ6:27~38 (新113)

6: 27「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」


説教「I love you, because…」徳弘浩隆師

1. 大嫌いだから、大好き?

ブラジルのスラム街でそこのブラジル人のお世話をしていましたが、子どもたちの中に、Tiago(チアゴ)という男の子がいました。聖書に出てくるヤコブのポルトガル語の言い方です。14歳くらいのその子は体格のよい子で、少しむつかしいところがある子でした。いうことを聞いてくれないでわがままを言ったり、急に怒ったり、時には友達をたたいたりして、大人を、また仲間の子どもたちを困らせることもある子でした。

ある日、その日のクラスやおやつの時間も終わって、片づけをして大人のスタッフが車でサンパウロに帰る時、道にいるTiagoに会いました。私はとっさに手を振って言いました。「Tiago!」 すると彼が振り向きました。さよならを言おうと思いましたが、なぜか私は「Tiago, Te amo」と言いました。Te amo(チ・アモ)というのは「I love you」という意味ですが、「チアゴ」と「チアモ」は語呂もいいし、とっさに口を突いて出たダジャレでした。車のスタッフの大人たちは大笑い、Tiagoも照れたような顔をして、「Tchau Senasei(チャオは、さよならの意味)」と手を振ってくれました。

一番頭が痛い、いわゆる「面倒な子」「問題児」ともいえる子ですが、それから彼の名前と、ポルトガル語でいう「I love you」の言葉はセットで思い出し、呼びかけるようにもなりました。

ダジャレの続きの面白いオチも思いつきましたが、スタッフの大人には言っても、彼には言わなかったと思います。それはこういう具合です。「どうして先生が君のことを愛しているか知ってる?」という意地悪な質問をして、「どうして?」と聞かれるとこう答えてギャフンと言わせたかったのです。「それはね、イエス様は言われたでしょ。敵を愛しなさいって。だから、君が大嫌いだから、君を愛しているって言ったんだ」と。

そんな意地悪なことを言って「思い知らせる」ことはしなくても、彼に教会でパソコンや音楽や聖書を教えながら一緒に過ごした数年間で、ずいぶん落ち着いて柔らかい子になりました。

2.聖書を学びましょう

今日の福音書のイエス様の言葉は、分かりやすいですが、難しいことを言われています。「敵を愛しなさい」というからです。愛せないものに対して、どうしてこんなことができるでしょうか?

では、そもそも、どうして愛せないのでしょうか?

イエス様が「愛せよ」という命令の言葉を聞くと、愛することが出来ない理由はこういうことになります。「あなたを憎む、悪口を言う、侮辱する、頬を打つ、上着を奪い取る」からですね。もっともです。

逆はどうでしょうか? 人々が誰かを愛したくなる理由は、イエス様の話に出てくる順でいうと、こういうことでしょう。「自分を愛してくれる、良くしてくれる」から、ということですね。これももっともな話です。しかし、それの反対をしなさいと言われると、実際には難しいことばかりです。

3.振り返り

私たちが何かを、誰かを、愛する基準、理由は何でしょうか?それは、「自分にとって何かメリットがあるかどうか」という尺度が大きいでしょう。

自分にメリットがある、心地いい、うれしい、は自然に人の心を開かせます。

TVコマーシャルの世界で昔から「3B」というキーワードがあるといわれます。「これに当てはまったCMは、だいたい評判がよく、ものがよく売れる」そうです。その3つのBとは、Beauty, Baby, BeastのBです。いわゆる「美人、美男子」と「赤ちゃんや子ども」、そして「(かわいい)動物」が出てくると、だいたい無条件で人は心を開き、動かされ、受け入れやすいというのです。製品の機能や安さや便利さをデータで示すよりも、人々がその製品に心を動かされ、購入頻度も上がるらしいのです。TVでCMを見るときに、今度気にしてみてみてみると、面白いかもしれません。

ブラジルでも別の「3B」という言葉を教えられました。買い物でお店の人が進めるとき、「これは3Bです」と冗談でよく言われます。それは、Bom, Bonito, Baratoでこれらは「いい(良いや美味しい)、きれい、安い」という言葉のことで、これも納得がいきます。

私たちは、知らずのうちにこういう尺度を持ち、こういうものを探し、大切にし、心動かされます。しかし、神様の尺度は、これらとは、違うようです。ここで私たちが考えさせられることは、「愛することに理由があるのか?」「理由が要るのか?」ということです。

私が冗談でTiagoに「どうして先生が君を愛しているか知ってるかい?」と聞いて、「どうして?」と聞かれたら、こんな答えが考えられます。

1)私が冗談で言ってやりたかったように、「イエス様が敵を愛せと言われたから、敵のように大嫌いな君を愛しているんだよ」と。これはいただけません。

2)「君がとってもいい子で、素直でかわいらしくて、優しくて、よく先生の言うことを聞いてくれるからだよ」とか、「君のお父さんがたくさん教会や学校に寄付してくれるらかだよ」かもしれません。これもだめですね。

3)「いや、理由なんかないよ。一人一人、とっても大切だからだよ」「神様は、誰でも、みんなのことを愛しているからだよ」でしょうね。

 計算高いのではなく、自分への見返りを求めるのでもなく、神の愛は、条件や理由などないのです。

4. 勧め 

昔の宣教師が聖書の言葉を伝えるときに、あまりなじみのない「愛する」という言葉は使いませんでした。日本の当時の人たちにわかりやすく、また勘違いされないような、適切な言葉を探しました。そして、「ご大切」という言葉に行き当たったそうです。

「神は愛なり」は、「神様はあなたを、ご大切になさる方ですよ」となるかもしれません。「神様」も神道の神様と誤解されてもいけないので、宣教師のポルトガル風に「デウスさまは」とか、それを日本語に当てた「天主様は」となっていたかもしれません。でも、「愛する」は「大切にする」です。 神様は、どんなに自己中心でわがままで、かけだらけのものでも、愛しておられる。「ご大切」にしてくださる。そんな方だと、条件なしの愛を、イエス様は説かれたのです。

そして、「言うだけ」でなく、この神の愛を説かれた方は、人々が頬を打つときに、衣服をはぎ取り、命を奪う時に、「自分から与えているので、彼らを輸してあげてください」と祈ってくれた神の愛の方だったのです。神様の愛を受けて、赦され、人を愛し、助け合ういのち、それが神様の願いです。それが私たちの本来の生き方です。それが誰もが生きやすい、本来の姿です。

そんな生き方を、少しずつ、一緒にしませんか?神様の祝福がありますように。


2022年2月17日木曜日

世界祈祷日2022のプロモーションビデオ

カナダの超教派キリスト教会女性会の作成した、今年の世界祈祷日のためのプロモーションビデオがありました。ちょっと見てみませんか?


大垣市・超教派「世界祈祷日2022集会」のお知らせ


毎年、世界中のキリスト教会で、同じテーマでお祈りをする日があります。同じ日の同じ時間ですから、地球が一周する間、世界各地で途切れることなくそれぞれの場所で祈りが続けられることにもなります。
毎年、色々な国のことを学び、その国のために祈ってきました。
ことしは、「イングランド、ウェールズ、北アイルランド」についてです。いわゆる発展途上の国々で、開発や人権や教育、健康や男女差別などを学び祈ってきましたが、今年は少し違いますね。どんなことを知り、学び、祈ることになるでしょう。
どうぞ、おいでください。

新型コロナが心配でもありますから、YouTubeでも集会の模様を配信しますので、大垣市の各教会や、ご家庭からも、「参加」できます。以下のURLをクリックしたり、QRコードをスマホなどでスキャンするだけです。当日、09.50頃から接続できます。
短い礼拝と、学びと祈りの時間です。
では、お待ちしています。

https://youtu.be/k3rbEBXS_AA



 

2022年2月12日土曜日

週報・メッセージ20220213

落ち葉を掃除しても風に吹き飛ばされて元の木阿弥。そんなことありませんか?教会の牧師館に住んでいると、よくある話です。妻と二人、頭を抱えて、何度も何度も掃除… まてよ。これは、僕らの人生かもしれません。聖書にそんなところがあったな。 どうすればいいでしょう? 礼拝で考えましょう。大垣教会でメッセージしますが、YoutubeとFacebookでも中継します。どうぞ、おいでください。






聖書の言葉 
詩篇1:1-6 
1いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 2主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。5神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。6神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

ルカ6:17~26 (新112) 
6: 17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 19群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。21今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。

説教「風に吹き飛ばされる もみ殻」 徳弘浩隆師
1. 「つたのからまるチャペルで」…は素敵?
「蔦のからまるチャペルで 祈りをささげた日~♪」という有名な歌があります。教会の一つのイメージで、それは素敵な、神聖な、祈りの場所です。しかし、興ざめするかもしれませんが、教会に住んでいる牧師からすると、ちょっと面倒なことでもあります。雑草を刈って、からまった蔦を引き抜いて、フェンスから丁寧に外していかなければならない、夏の毎週の作業が待っているからです。去年は岐阜教会は奉仕者も得て草刈りをして、防草シートを敷いて、上に茶色の瓦チップというのを敷設しましたので、それ以降はだいぶきれいに、楽になりましたけれど。
さて、草刈りの跡がまた大変です。秋の落ち葉も同じです。風が強い日は何度ほうきで掃いても、集めても、吹き飛ばされて元の木阿弥。隣の家の駐車場にも広がってしまって、妻が悲鳴を上げながら集めます。
今日の聖書の詩編の冒頭部分、「神に逆らうものは、風に吹き飛ばされるもみ殻」という言葉は、身に染みます。神に従うものと、神に逆らうものの人生を、そんな風にたとえています。それは、何度頑張っても、うまくいったと思っても、風が吹けば吹き飛ばされて元の木阿弥。いや、もっと状況はひどくなり、手に負えなくなる。そして実は、吹き飛ばされるもみ殻や落ち葉の方が、行き場のない自分の人生。それが、神様に従わない者の人生といわれます。なるほど、そうだなぁと、思い知らされます。

2.聖書を学びましょう
今日の福音書のイエス様の言葉も、何が幸いで、何が不幸かということを話されています。詩編のストレートな言葉と違い、イエス様のお話しは少しびっくりするような予想外の言葉で、人々の心に訴えています。
それは、「貧しいものは幸いだ」といわれるからです。誰でも、貧しさより豊かさを願います。飢えよりも満腹を、泣くことよりも笑うことを、憎まれるよりもほめられ好かれることを願います。しかし、その逆の、私たちが願わないことの方が「幸せなんだよ」と言われました。これは、どう理解したらよいのでしょうか?
その理由は、不幸な人のことを言うイエス様の言葉を聞くと分かります。彼らはすでに、慰めを受け、満腹し、称賛を受けている、つまり、満足してしまっているからということがカギです。満足そのものが悪ではないでしょう。そのとき人間が陥りがちな落とし穴が問題なのです。
それは、満足して神様に感謝して、人にも分け与えるのではなくて、自信過剰になり、もっと独占しようとする心の動きが、私たち人間にあるからです。そんな自己中心の心、どうしようもないくらい罪深い心を持った私たちのことを、聖書は「罪人(つみびと)」と言います。自分を愛し、人を疎んじる。幸せを感じ、苦しい時のことや苦しんでいる人のことが見えなくなる。それが私たちの哀れな姿です。
それよりも、貧しく、悲しく、飢えている時の方が、神様に頼まざるを得ない謙虚な時の方が、本来的な神様との関係が保てるというのです。

3.振り返り
私たちはどうでしょうか?貧乏をしたことがあると、その時の心細さを知っているから、安定してきたときに神様に感謝して、苦しみの中にいる人たちを助ける心があり続ければいいのですが。また苦しくなってはいけないと、せっせとため込んで他の人のことなど気にしなくなるかもしれません。挿絵にあるように、風に吹き飛ばされる紙幣を追いかけ、自分の豊かさだけを追い求めて走り切る人生は、終わりの頃には幾分たまるかもしれませんが、目の前にはもう終わりが迫っているのです。もちろんお金も大切です。しかし、こんな最後まで安心できない人生を送ってはいないでしょうか?
私たちは、喉元を過ぎれば熱さを忘れますが、それを忘れないためにはどうしたらいいのでしょうか?今日の福音書の最初にもカギがあるように思います。
マタイが伝えたイエス様の姿と、ルカが書き記して伝えた姿には視点の違いがあります。マタイは、旧約聖書をたくさん引用しながら、イエス様は預言されていたモーセのように人々を解放する方、神様との仲介をしてその言葉やおきてを伝え、奇跡をする方という印象が強くあります。だから、「山上の説教」といわれるように、山の上で人々に語った日のことを書き残しています。モーセが山に登り十戒を得てきて人々に伝えたのをほうふつとさせるようにです。
しかし、ルカは山の上ではなくて、「彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった」のです。そういえば、先週のイエス様の説教をした場所も、小高いところではなくて、みんなを小高い岸辺において自分は小舟に乗って湖からみんなに語りました。ルカは、高いところから来られた神の子や預言者ということよりも、低くされた人、苦しみあえいでいる人たちと同じところにいるイエス様の姿や姿勢・生き方がたくさん伝えられているのです。

4. 勧め 
ユダヤの民も、他国で寄留の生活をし、奴隷のような境遇に苦しんだ歴史がありました。だから神様は「寄留の民を愛しなさい。あなた方もかつてそうだったのだから」という掟が旧約聖書の中にすでにあります。しかし、そこから救われると、他の民を圧迫し見下すようなところがありました。「自分たちは選ばれた民で、特別なんだ」と、救われた出来事を思い出す過越祭などを大切にしますが、他者を愛し助けるようにという神の愛の勧めは忘れていました。今日のイエス様の教えはそんな状況の上にも立っているのです。
あなたはどんな苦しさを体験しましたか?それから解放されたら、「やれやれ、よかった」ではいけません。かつて自分がそうだったから、そういう人に手を差し伸べるよう、促されています。それぞれ違っていいのです。潜り抜けてきた人生が違うからです。寂しかった、苦しかった、辛かったその思い出は、閉じ込めるのではなくて、神様に開放していただいたことを思い出し、そんな人に自分は出会っていきましょう。そのとき、あなたの差し伸べる手は、あなたが聞いてあげる耳は、キリストの手、キリストが聞いて下さるやさしい耳になります。
祈りましょう。「神様、私をキリストの手にしてください。耳に、口にしてください。この世界で苦しんでいる人に、神様の救いと愛を伝えさせてください。」
みんなの幸せは、そこにあるはずです。


2022年2月5日土曜日

週報・礼拝メッセージ 20220206

あすは、徳弘牧師は岐阜教会で礼拝メッセージをします。大垣でも、信徒礼拝があります。どうぞ、おいでください。でも、大雪警報も出ました(現在)。おきをつけて、またはむりされないで。YoutubeやFacebook中継もあります。




聖書の言葉 

ルカ5: 1~11 (新109)

5: 1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。。


説教「何をいまさら、という時でも」 徳弘浩隆師

1. 「だから、あの時そう思ったんだ」と…

大変な失敗をした後、落ち込む気持ちに追い打ちをかける言葉がありますね。「やっぱり、そうなると思っていたんだ。どうしてそれが分からなかったのかねぇ」という言葉です。

全然関係ない人で、あとから聞いた話でそう言われるならまだしも、「一緒にその場にいて、その時は何も言われなかったのに、今になってあなたが言うのか?」という状況の時があります。

最近は母の入院で父とは二人だけでいろいろと話すことがあり、急に一人暮らしになってしまった父は少し寂しい思いをしながらでしょう、多少自虐的な事でも思い出して話すことがあります。二人で笑いながら意気投合しました。

それはこんな具合です。「少し車の運転が下手になってきたかなぁと思うことがあるんだ」と私が言うと、父の話が始まります。「父さんも歳を取って下手になってきて、ちょっとしたところで車をぶつけたりしたよ。若いころは上手だったけど、つい標識を見逃してスピード違反で捕まったりしたなぁ」と。そして「そういう時いつも母さんに怒られたもんだ。『どうしてこんなことに気付かなかったの?私はここ危ないと思っていたのよ』」と。そして二人の共通の意見はこうです。「そうだそうだ。ああいうの、いつも後から言うんだよね。私は分かってたって。本当だったら、どうして、その時言わないのかねぇ。しかも、自分は免許持ってなくて運転しないのにねぇ」と二人で大笑いするのです。

もちろん、陰で悪口を言うのではなくて、母親がいなくて寂しくて、二人でしみじみと笑うのですが。

そこには二つの論点があります。「あの時は何も言わなかったのに」、ということと、時には「あなたは専門外で何もしらないくせに」ということです。

2.聖書を学びましょう

今日のイエス様も、少し似た状況でしたが、大きく違うことをされました。

ゲネサレト湖畔、これは別名ですが、ガリラヤ湖の湖畔でのイエス様の活動の初めのころの出来事でした。

評判のイエス様のお話を聞こうと群衆が押し寄せてきたのですが小高い丘もなく、ちょうどよい教壇のような話をしやすいところをと思われたのでしょう。岸で漁の後の網を洗っていた舟の持ち主に頼んで、それに乗り込んで、少し漕ぎ出してもらいました。そこで船に腰を下ろしてみ名に話をされたのです。どのくらい話されたかは記されていませんが、話が終わって、さて舟を岸に戻そうという時が来ました。しかしイエス様は舟を岸に戻すのではなく、逆に「沖に漕ぎ出して網を下ろしなさい」と言われました。

その舟の持ち主シモン、つまりシモン・ペトロは少しの問答をしますが、言われるままにしました。すると、たくさんの魚が獲れ、イエス様の呼びかけに従って、イエス様に従うもの、つまり弟子になっていったというお話でした。

3.振り返り

さて、これを読んで、イエス様の奇跡の力を見るわけですが、それだけだと、それなりの「昔の奇跡の物語」という「ありがたい話」に終わるでしょう。

しかし、ペトロの気持ちを考えてみることが、今の私たちに神様はこの出来事を通して何を語り、何をなさり、何を願っておられるかを聞くことができるようになります。

ペテロの状配はこうでした。1)夜通し苦労したけれど何も獲れなかった。2)収穫がないので疲れが倍増してようやく岸で後片付けをしていた。3)そんなところにやってきて、自分の事情を何も知らないこの人が話をするために舟を貸して少し出してくれと言われた。4)でも、評判の偉い先生だし、この人の願いにこたえてあげようかと思った。5)ようやく話が終わって、岸に戻ってさっさと後片付けを済ませて家で一休み、ひと眠りしようかと思っていた。6)そんな自分の気持ちも知らないで、沖に行って網を打てというのか。7)この漁は夜やるものだから日中にやっても無理なのに、この人は何を言うのか。8)そういえば、この人は大工の息子らしい、漁のことは何も知らないんだ。9)どうせ来るならあの時、夜に漁に出る前に来て言ってほしかった。もう遅いよ…

推測も含めて想像を広げてみると、こういう具合かもしれません。私が父と母のことを思い出して、少し身勝手な母の発言を懐かしく笑った、「そういうなら、あの時言ってくれたらいいのに」「あなたは、専門外で何も知らないくせに」という気持ちも思い出します。そして、上の9つのペテロの心の中のセリフは、良く考えてみると、私たちの人生で何度もつぶやいたことがあると、身に覚えがあるものです。人間関係で、そして、神様との関係でです。そんなことはありませんか?

「人の苦労も知らないで。どうして神様、あの時に声をかけてくれなかったんですか?今じゃあ、もう遅いですよ。それで、もう一度しろっていうんですか?いや、これには難しい事情もあるし、あなたは何もわかっていない。それより、私は今から帰って、ゆっくりしたいんですよ。結果が出なかったいま、非常識にもう一度挑戦することよりも、家でゆっくり寝ることがわたしの願いなんですよ。もう、ほっといてください。人の人生に急に勝手に入り込んできて。振り回されるのはもうこの辺で終わりにしたいです。やってみてダメなら、責任取ってくれますか?」

と、もう少し自分に覚えがある言葉にするとこういう感じでした。そんなペトロに、イエス様は何をされたのでしょうか?「何も知らないくせに」だったのでしょうか?

イエス様は、神様は、そんな気持ちを全部知っておられたのです。だからこそ、「今からもう一度やってみよう。このまま家に帰って『ふて寝』するんじゃなくて、私の言うようにやってごらん。私が責任を取り、保証するから」という促しをして、そして、結果を見せてくれました。これで、ペトロは驚き、自分の罪深さを告白し、自分から離れるよう願いました。それは、自分が遠ざかるのではなくて、舟の上ですから、この自分の罪深い船から降りて遠ざかってください、と願ったのかもしれません。どんな失敗だらけの舟・人生でも、イエス様の願いにこたえようと知らずにしたことが、イエス様を招き入れることになりました。そして、貧しく徒労に終わった罪深い人生と、できるならあの網がいっぱいになるほど魚が取れたら生活も楽になるのに、という願いもすべて神様は知っておられ、予想外の命令をし、それを信じ従った時に、たくさんの恵みをくださったのです。

4. 勧め 

神様の呼びかけはいろいろなきっかけがあるでしょう。聖書の言葉や、教会が直接心に響くことも、誰かの言葉を通してという時もあるでしょう。反対に、困っている人を助けてあげようと、その願いにこたえてを貸してあげている時に、逆にイエス様にその手をつかまれ、新しい人生に引き込まれることもあるのです。

教会の働きは、聖書を学ぶだけではありません。勉強が苦手とか、自分みたいな罪深いものがとか、関係ないのです。イエス様にいろいろなきっかけで手をつかまれ、引き上げられれ引き込まれ、不完全さを認めそれ(罪)をゆるされ、新しい人生を始めた人たちの集まりです。一緒に笑い、泣き、祈り合い、助け合う、神の家族の共同体です。さあ、あなたも、いっしょにどうぞ!


2022年1月29日土曜日

週報・礼拝メッセージ 20220130

今日はルーテル岐阜教会で説教をします。FacbookやYoutubeでもどうぞ。大垣教会でも信徒礼拝があります。または、お近くのルーテル教会にも一度行ってみませんか?










聖書の言葉 

エレミヤ1: 4~10 (旧1172)

1:4主の言葉がわたしに臨んだ。5「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」6わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」7しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。8彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。

ルカ4:21~30 (新108)

4:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。




説教「恐れずに畏れる」 徳弘師

1. 「今日の会議はすぐ終わると」と思ったら…

「今日の会議はもめることはないだろうから、早く終わるだろう」と思っていたら、予想外に議論になって長引いた挙句、何も決まらず次回へ持ち越しになった、ということが先月ありました。「大丈夫です、だいたい話は通っていますから、集まって1時間くらいで終わるでしょう」と言われてはるばる出かけて行ったのにふたを開けると大違い。長い話し合いで、ふらふらになって、達成感もなく帰りの車を運転して帰りました。今回は「今度はあまり期待しないで、ゆっくり話し合おう」と思っていたら、予想通り紛糾したけれど、肩の力を抜いて正直に困惑と考えられるほかの可能性を口にしてみたら、説得口調でもなかったのに、最後は意外とそこに落ち着きました。参加者それぞれは悪気がある訳でもなく、目的が違うわけでもないのに、一生懸命に思えばこそ、意見が合わないこともあり、予想外に反対されたり批判されたりすることもあるものですね。会議ではなくても、「簡単な用事と思って出かけたら大変面倒なことになってしまって…」ということなら誰でもあるかもしれません。

正論を訴えても理解されないこともあるかもしれません。予想外にややこしくなって収拾がつかなくなることもあります。間違っていなくても、みんなから「叩かれ」て、嫌われることもあるものです。

2.聖書を学びましょう

今日のイエス様は、そんな目に合われたようです。私たちとは次元はずいぶん違うかもしれませんが、神とともに生きていても、神のことばを語っても、歓迎されるだけではなく、批判され、字通り崖から追い落とされそうになる出来事に私たちは驚きます。今日の聖書では、ここに現れる人々の心のありさまは、また神様の視点は、どういうことだったのでしょうか?聖書を読んでいきましょう。

今日の聖書個所は、先週の続きです。というか、先週の終わりの言葉のところがもう一度読まれ、今日はそこから始める続きの出来事です。ご自分が育った故郷の街の会堂に安息日にイエス様はいかれました。聖書が読み上げられ、イエス様が説教・つまりその説明を始めたところ、みんなはそれに感心し、驚いたのでした。しかし、みんなが驚いただけならよいのですが、思わぬ方向に向かいます。

「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い」たのですが、感激して聞き従ったのではありませんでした。彼らの口から出た言葉はこうでした。「この人はヨセフの子ではないか」と。

それに対して、イエス様は、「預言者は故郷では歓迎されないものだ」といわれ、「ここは故郷だからここでもいろいろ良いことをしてくれよ、とばかりに言うのだろう」という具合に人々を諫めます。

すると「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」と恐ろしい展開になっていくのでした。崖ぶちに背を向けたイエス様の挿絵がありますが、危機一髪の展開になります

3.振り返り

さて、この挿絵を見て、私はどこにいるでしょうか?もちろん自分の絵はここには描かれてはいません。しかし、ちょうどこんな状況になる時があるかもしれません。崖を背にして神様の言葉を語るイエス様の側でしょうか?それとも、イエス様を指さし、こぶしを上げて非難する側でしょうか?

私には、両方の立場が、その時に応じて、あると思わされます。神の側で攻められるとき、群衆の側で神を責める時。私たちの祈りもそうでしょう。「どうしてこの人たちは分かってくれないんだろう」と優しい気持ちで崖を背にして人々を見る時と、「どうして神様は分かってくれないのか!」と神様に迫る時です。

私たちがこの状況を客観的に理解し、間違えないために、また、責められてつぶれそうになる時、どうしたらよいのでしょうか?

その答えは、今日の旧約聖書に日課を読むと、ヒントを得ることができます。エレミヤが預言者として、つまり、神の願いや計画を人々に告げる職務につかされる時に、彼は何とか断ろうとします。「生まれる前からあなたを選んでいたんだよ」といわれると、「いいえ、まだまだ若いですから無理です」と断ります。

しかし、そこで神様はこういわれました。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と。

その人がどういう生まれだとか、どんな能力や経験があるかとか、それは、神様の選びには関係がないようです。逆にそればかりを気にするので、自信がなくなったり、恐れたりするものです。

イエス様の説教を聞いた人たちは、その口から出る恵みふかい言葉に驚いたのです。しかし、その反応は、生まれや育ちを知っているゆえに、低く見たのでした。又は逆に、各地で奇跡を起こしたそうだから、昔なじみの自分たちにはもっといろいろ良いことをしてくれないだろうか、と、見当違いの期待をしたのでした。それは、両方とも、神様の視点ではなく、人間の視点でした。相手を過小評価するのも、過大評価するのも、人間的な付き合いや視点だったのです。

今日の旧約聖書は今日の私にも語り掛けます。「若いからと言ってはいけない」神様が遣わすのだから、神様が命じる言葉だから、神様が一緒にいてくれるから」その言葉や使命は、尊く、恵みふかいものなのです。だから、恐れなくてよいのです。

4. 勧め 

 神のことばにおそれ入った人々は、神をうやまい「畏れる」べきでしたが、人間の目で見てその人の弱さや逆のすばらしさを心配し「恐れた」のでした。私たちも、人に奉仕をしても理解されず傷つくときもあります。聖書の言葉を伝えても誤解されうまくいかず辛い時もあります。一人、崖っぷちに追い込まれたような気持になることもあるでしょう。

しかし、人間の目で恐れず、神を畏れうやまいこの方に従う時に、道が開けます。人にすぐに理解されるためにやっていることではありません。神様の願いだから、その人のためだから、嫌われても、ただ奉仕し、神の愛を伝える人になりたいですね。

牧師の働きも、また牧師に対する教会メンバーの在り方にも同じことが言えるでしょう。牧師が交代する時も、このことを大切にし、若い牧師でも神が立てた方を迎え、一緒に宣教していただきたいと思います。もちろん、立てながらも、誠意をもって進言したり話し合って一緒に道を開いていくものになりましょう。

あちら側でもこちら側でもなく、私たちはみな、神様の側です。そうして一緒に生きる共同体が、教会なのです。祝福を祈ります。

2022年1月22日土曜日

週報・礼拝メッセージ 20220123

  今日は私はルーテル大垣教会で礼拝メッセージをします。オンラインもあります。どうぞ、おいでください。


聖書の言葉 

ルカ4:14~21 (新107)

4:14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19主の恵みの年を告げるためである。」

20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


説教「今日実現する」 徳弘師

1. 「締切り」の苦しさ「満期」の嬉しさ…

私たちの人生には、何かと「締切り」があります。仕事柄、そんなことに追い回されているという方もおられるでしょう。私も広報室長になり機関紙「るうてる」を編集していたころそうでした。原稿を依頼して集め、自分もいくつか記事を書き、写真やイラストを編集し、それらを紙面に割り付け編集し、業者にデータを渡す日が毎月決まっていました。原稿が集まらなかったり、予定が急に変わって記事を差し替えたり、パソコン編集に切り替える前は業者の人が受け取りに来ていたので、応接室で待ってもらって汗をかいて仕上げたり、付き合いが長くなるとその人のご自宅による車で届けたりするときもありました。

反対に「満期」という嬉しいこともあります。もう少し辛抱したらその日が来るから、もう少し我慢しようと思います。昔は、年季奉公が終了するというのがあったようです。今なじみ深いのは定期預金が満期になるというのがあるかもしれません。私も、日本に帰国して日本での生活を再出発するときに、生活用品や車を買い替え準備して大変な時もそれなりにありました。月末にお金の心配をし、支払期日があるものに追われるという生活は誰にもあるでしょう。私も海外生活でわずかな貯金を使い果たし、帰国後の数年して一つの定期預金が「満期」になり、大した金額ではありませんでしたが、ほっと一息ついたことを思い出します。

今日の聖書を読んで、そんなことをしみじみと思い出しました。それは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエス様が言われたからです。「今日実現した」とは、何が実現したのでしょうか?今の私たちにどんな関係があるのでしょうか?聖書を学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

イエス様は育った町のなじみの会堂に入りました。今の私たちからすれば、「こどものころから通っていた教会」というイメージでしょう。会堂とは、かつて国が滅びバビロン捕囚として異国にいたころから、エルサレム神殿ではなくそれぞれの街に建てられた礼拝所で安息日に礼拝をすることが彼らの信仰の大切な拠点になっていました。「シェマ・イスラエル(イスラエルよ聴け)」という申命記4節の祈りと信仰告白を皆で唱え、聖書が朗読され、会堂司が依頼した人によって聖書の解き明かしがされていたそうです。当時の聖書とは、今でいう旧約聖書の一部分で、そのモーセ5書、律法と預言書の中から一部分が読まれたのです。当時の習慣により、イエス様も何日か前に会堂の係から説教することを頼まれていたのだろうと理解されています。

さて、その日読まれたのは、今日の福音書で18.19節に引用され触れられているところでした。それは、イザヤ書の61章からでした。これは偶然ではなく、聖霊による導きだったのです。そこに書かれている預言が大切で、「それが、今日実現した」とイエス様は解説を始められたのです。

何が実現したかを知るためには、今日のイザヤ書を考えねばなりません。それは、「主の霊がとどまり、貧しい人に福音を告げ知らせるために私に油を注がれた。主が私を遣わせたのは、捕らわれ人の解放、目の見えない人の回復、圧迫されている人の自由」が訪れるためだと書かれています。そして、「主の年の恵みを告げ知らせるため」ともイザヤは預言しているのでした。

次に私たちは、安息日とヨベルの年について学ばなければなりません。神様は6日間働いて7日目は休むよう定められました。それが、「安息日」です。安息日を意味するヘブライ語の「シャバト」はそのまま今でもポルトガル語やスペイン語、インドネシア語でも「土曜日」の意味で使われています。多くの人は、語源を知らずに土曜日を「安息日」と今でも呼んでいます。

そして7年目の年を「安息の年」と呼んでいました。この年は畑を休ませる規定で、耕作は許されていませんでした。たくわえとともに、自然にできたものを土地の所有者ではない人とともに分け合って生きる一年でした。人も、自然も休ませるべきだ、自然を大切にして分け合って生きるべきだと、今の私たちが学ばねばならない事が決められれていたのです。特にコロナ禍の今、心にとめさせられます。

そして、その安息の年が7回巡ってきた翌年、つまり50年目を「ヨベルの年」と呼んでいました。「ヨベル」とは、安息日のはじまりと終わりの合図として、会堂の屋上からラビが吹き鳴らす「雄牛の角笛」のことでした。英語ではJubileeと言います。さてこの「ヨベルの年」は特別な意味が込められていました。その年には三つのことが行われると規定されていたからです。それは、1)畑の休耕、2)売られた土地の返還、3)奴隷の解放でした。畑は安息の年と同じように休ませ自然を大切にし、皆で分け合って生きること。買った土地も元の持ち主に返し、借金がある人は帳消しにされ、奴隷は解放されて家族のもとに帰ることができたのです。レビ記25章に規定されています。

厳密にそれが実施されていたかどうかは確証がないそうですが、聖書に規定されていたそれらの伝統を知り、生きていた彼らが待っていたのは、このような年が巡ってきて、すべてが解放される時だったでしょう。

それに加えて、油注がれた者、つまり本当の王様が立てられ、今の難しい世の中を解決してくれる、メシアを待つ気持ちがあり、ローマ帝国の支配に苦しんでいた当時の人々はそれが頂点に達していたのです。

それを知り味合う時に、今日のイエス様の言葉の意味がしみじみと理解されるのです。

3.振り返り

さて、今の私たちにとって、何が実現したらうれしいでしょうか?今読んできたのと同様、積み重ねてきた問題、膨れ上がった借金、ややこしくなってどうにも解決できない問題、それらを抱えて生きていませんか? それらすべてを解決してくる日が来るなら、その日が待ち遠しいと思います。

年季奉公が終わり、いよいよ務めを果たして自由の身になれる。あるいは、毎月末に少ない残金をやりくりして何とか月を越していたけれどようやく定期預金が満期になるので一息つける。そんな気持ちは想像しやすいでしょう。奴隷制度はピンとこないかもしれませんが、奴隷のような生活で苦しんできたけど、自分の身を買い戻してくれて、自由になれる年、それがヨベルの年です。教会の用語で、「贖われる」という言葉は実はこの「買い戻してくれる」という意味を持っています。洗礼を受けるのはそういうことです。

4. 勧め 

 単に「今日、実現したよ」「いいことがあるよ」ではなくて、これらの意味を重ね合わせながら、すべての問題を解決してくれる、待ち遠しかったその日が来た、ということでした。もうこれからは、借金取りを気にしなくてよい、苦労して人に使われることもない、離れていた家族のところに帰れる、のです。そして、それは神様との関係でもそうです。もう、安心していい。びくびく恐れなくていい。借金を帳消しにしてもらったように、今までの罪を赦してもらった。そんな特別の年、いや「特別の時」が来たのです。

 ポルトガル語やスペイン語ではこのヨベルの年を語源にして、定年退職することをJubilarと言います。あくせく仕事をしなくて良い、解放された。後は悠々自適の年金暮らしだ、という気持ちが込められています。今の日本でこれからの「年金暮らし」は、たくさんの不安があるかもしれませんが、それは自分も選挙して政治参加して改革をお願いすることにして、「あとは国が養ってくれる」という安心感を考えるなら、「あとは神様が養ってくれる」という安心感を考えると理解しやすいでしょう。

私たちの信仰生活は実は、そんな意味もあるでしょう。もう何も心配しなくていい。神様と一緒に、悠々自適の生活を、いたしましょう。それは、イエスキリストがいてくださるから、実現したのです。一緒に、この方のことばを聞きながら、安心して生きていきましょう。


2022年1月15日土曜日

世界祈祷日2022でも歌う讃美歌を歌いましょう

 世界祈祷日が3月4日(金)にありますが、今年は「イングランド、ウエールズ、北アイルランド」となっていて、いくつか新しい賛美歌が紹介され、使われます。

世界祈祷日の意識を持ってもらうことと、当日参加の方のための歌の事前練習という意味もかねて、これを歌えたらと思いました。

日本聖公会聖歌集417番「あなたの平和の器にしてください」という歌です。


日本語での賛美のYoutubeはここです。日本聖公会のものです。

 https://youtu.be/0KoL3PHlogE


英語のページの歌い方の方が独唱ではないので、聞きやすくみんなで歌いやすいように感じました。以下のものはインドネシアのキリスト教会のようですが。

 https://www.youtube.com/watch?v=kBMfohH94-g

一度聞いてみませんか?おおがききょうかいではらいしゅうからうたおうとおもっています。


週報と牧師のメッセージ20220116

 礼拝は、YouTubeとFacebookでも中継します。どうぞ、おいでください。 


聖書の言葉 

ヨハネ2: 1~11 (新165)

2:1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


説教「この人が言えばその通りに」 徳弘師

1. 水がお酒になったといえば…

今日の聖書の伝える物語は、イエス様の最初の奇跡とも言われるカナの婚礼での出来事です。

とても有名なお話で、その名にちなんだワインも売られています。それは、パレスチナ原産でエルサレムの西方、ラトゥルンの丘のトラピスト会のラトゥルン修道院で作られている「Cana Wedding Wine」といいます。日本でも買えます。聖書にあるカナはガリラヤですからもっと北の地方で、そこには聖書のカナの地だといわれる史跡やそこに建てられた教会もあり、このワインが作られている修道院の場所とは違います。もっとも、聖書にあるカナだろうといわれる場所は諸説あって、確定しているわけでもありません。しかし、一度このワインを飲んでみたいという気にもなるものです。ご利益にあずかるというような気持ではなくて、イエス様のことを思いながらですね。

そんなことを考えていると、「まてよ、似た話を日本でも聞いたことがあるなぁ」と思い浮かぶ話があります。それは、並べて考えてみると不謹慎かもしれませんが、岐阜県にある「養老の滝」です。こんな話ですね。

昔、貧しいきこりが、谷深い岩壁から流れ落ちる水を眺め、「あの水が酒であったらなあ』と老父の喜ぶ顔を思い浮かべたとき、岩から滑り落ちて気を失っていました。しばらくして、気がつくと、酒の香りがするので、あたりを見回すと、近くの岩の間から、山吹色の水が湧き出ており、なめてみると酒の味がしました。これを汲んで帰って、老父に飲ませたところ、大変喜び、すっかり若々しくなりました。

国や宗教を問わず、どこでもこの手のお話があるのか?とも思いますね。

そして修道院ではいろんなご当地の伝説を盛り込んだお菓子やワインなどは話題に事欠きません。日本で昔流行った白ワインのマドンナというドイツワインは、ドイツではLiebfrauenmilchとい呼ばれるものですがその意味は「聖母の乳」という意味。日本語でその名で売り出してもわかりにくいので聖母マリアを意味するマドンナという名前にしたのでしょうか。幼子イエスに授乳する聖画がありますが、ドイツのヴォルムスの聖母教会にちなんだ名前だそうです。ちなみにこのヴォルムスはルーテル教会にも大切な街で、1521年に帝国議会にルターが召喚され、自説を撤回するように迫られたけれど拒絶し、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べたといわれる場所です。そんなことに思いをはせながら、味わうのもいいかもしれません。

さて、今日も雑学はこのくらいにして、イエス様のこの奇跡は、これらのご当地の話と何が違うのでしょうか?私たちにどんなメッセージを語っているのでしょうか?聖書を学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

先週はイエス様が洗礼を受けられて、メシアとしての生涯を始められた転換点になる出来事でした。そして今日は、弟子たちの召命に続いて、イエス様の最初の奇跡が取り上げられています。

母マリアやイエス様と弟子たちは、婚礼に招かれたのですが、その大切な日のワインが足りなくなって困りました。マリアの相談を聞いたイエス様が言われる通りに、水がめに水を入れるとそれがぶどう酒にかわったというのです。そして人々は大変驚きました。

歴史の中での聖画ではよく、壷が描かれていますが最近の聖書訳では研究や時代考証をしていて「石の水がめ」と書かれています。そしてもっと新しい翻訳では水の単位は分かりやすく「80から120リットル」と書かれているものもあります。右の絵の良いところは、水がめにワインではなくて水を「ドバドバ」と入れている決定的瞬間とでもいうところでしょうか。今でいえば「食品偽装の瞬間」ともいえるかもしれません。

3.振り返り

さて、今日の聖書のお話は私たちに何を問いかけ、教えているのでしょうか?

養老の滝の話のように、親孝行をしようとして水がお酒にかわった美談と、そこからくる道徳的教えでしょうか?そうではありません。むしろイエス様は、マリアに冷たく返事をしたのです。「私の時はまだ来ていません」と。しかし、その後が大切です。マリアは召使たちに言いました。「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と。それを聞き逃してはいけません。自分にはわからない事でも、あるいは場違いなことをお願いしてしまって退けられたように感じたかもしれないけれど、「この方の言うとおりにしてください」という信頼、信仰へとも成長発展していく姿があったのでしょう。それで、その通りになったのでした。頼まれた召使にしてもそうです。人に隠れてかもしれませんが、カメに水をドバドバと入れることは気が引ける非常識な事だったかもしれません。でも、それをやりました。すると、神のわざが起こったのです。

水がワインに変わったという事よりも、「この方の言うとおりにしなさい」というい信仰、そして迷いがあったかもしれないけれどその通りにした行動、それが事態を変えたのです。そこに最初の奇跡の意味があるでしょう。

その続きの学びはこうです。その味を見て宴会の世話係は驚きました。「普通最初良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころ劣ったものを出すのに、こんな良いぶどう酒を取っておかれたのか」と。しかしここでも、私たちはこの事実に驚いてはいけません。その次にこうあるからです。「イエスは最初のしるしをカナで行って、その栄光を現した。それで、弟子たちはイエスを信じた」と。これは、ヨハネの福音書の1章の最後から続いて読むと一段とその意味を味わうことができます。

イエスの誕生と洗礼が書かれ、そのあと、最初の弟子たちが選ばれイエス様に従いました。シモンは「メシアに会った」という兄弟の証言を聞いて付いて気ました。そして翌日ついてきたナタナエルは、どうして自分のことを知っているように言われるのか不思議に思ったのですが、イエス様に「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われて驚き信じたのです。「何でもお見通しの方」と思ったのでしょう。しかしその三日後の今日の出来事では、「イエス様の言葉を何でもその通りにしたら、奇跡が起こった」という出来事を目の当たりにして、イエス様をより深い意味で弟子たちは信じたのです。弟子たちの出会いとついてきた理由、そして信仰が育てられてきていることを一緒に見ることができます。

4. 勧め 

 私たちはどうでしょうか?イエス様の言葉を毎週礼拝で学び聴きながら、成長しているでしょうか?お門違いのお願いをして退けられてしまっても、この方の言うことは何でもしようと、信じ続けているか。そして、その通りにやってみたら、状況が変わったということを、教会生活の中で体験してきたでしょうか?そんな体験を大切にしましょう。

聖書の知識が増して信仰が深まり成長しているのではなく、こういう体験を通しながら私たちは神様に作り替えられていきます。一緒に歩みましょう。神様の祝福がありますように。

2022年1月8日土曜日

週報と牧師のメッセージ20220109

 1月9日は徳弘牧師は大垣教会で礼拝説教を担当し、岐阜教会では信徒の方がメッセージをしてくれる礼拝があります。礼拝中継はYoutubeとFaceBoolの両方です。どうぞ、おいでください。






聖書の言葉 

イザヤ43: 1~ 7 (旧1130)

43:1ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。

ルカ3:15~17,21~22 (新106)

3:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


説教「恐れるな、共にいる」 徳弘師

1. たとえ火の中 水の中…

 今日の旧約聖書の言葉を呼んで暫く過ごし、今日の準備をしていましたが、思い出した言葉は「たとえ火の中水の中」という言葉です。

 「どんなに難しいことや試練があっても、私は頑張ります!」というようなことを言う時によく使われる日本語ですね。確かに、火の中や水の中では私たちは生きていけませんから、その決意と覚悟をよく表した言葉でしょう。

 しかしそのいわれを調べてみて、びっくりました。 これは、歴史が古く、平家物語(鎌倉時代に成立したとされる軍記物語)に出てくる言い回しだそうです。そして実はもっと古くに、万葉集(奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集)のい歌にもあるそうです。そして、その両方とも、ラブレターのような文章の言葉でもあるとのことで、驚きました。

平家物語では、平維盛(たいらのこれもり)という武将が都の妻に対する説得の手紙に書かれているそうで、「火の中水の底への一緒に沈み、死ぬまで一緒にと思っていたけれど、この戦は大変厳しくて…」というような下りです。

万葉集では、安倍郎女(あべのいらつめ)という女性が男性への思いを詠んだで、「我が背子は 物な思ひそ 事しあらば 火にも水にも 我がなけなくに(巻4・506)」とあり、意味は「あなた そんなに独りで心配しないで何かあったなら火にも水にも飛び込む私というものが一緒にいるじゃありませんか・・・」という具合です。心強い言葉ですね。

 これからは、この言葉を口にするときに、そんなに古くからいわれていた言葉なのかと、これらの歌を思い出し、感慨深く語るのも良いかもしれません。しかし、私たちにとってもっと大切な、思い出すべきことは、今日の旧約聖書、そして、新約聖書の出来事です。雑学はこのくらいにして、聖書を学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

今日の福音書は、イエス様が洗礼を受けられた時の話です。クリスマスにその誕生をお祝いし、その後幾つかの出来事を一緒に読んできました。1月6日のエピファニー・顕現節に、東方の博士が星を頼りに訪ねてきてイエス様に贈り物をしたという話で、クリスマスシーズンは終わります。今でもスペインではクリスマスではなくて、この日に子どもたちがプレゼントをもらう習慣の方が強いそうです。

さて、それも終わり、イエス様が12歳の時のエピソードも学びましたが、いよいよイエス様がみんなの前に出て、メシア・キリストとしての活動を始められる分岐点、それが今日の出来事です。

メシア(救世主)を待ち望んでいた民衆は、ヨハネに期待しました。祭司の息子で生まれるときに父ザカリアが不信仰で口がきけなくなったけれど、その子が生まれたときに口が利けるようになったという出来事は有名だったでしょう。そして、その子は大きくなり荒野で人々に「悔い改めの洗礼を」授けていたからです。しかし、その洗礼は「悔い改めてメシアを迎える準備をしなさい」という意味のもので、彼はメシアではないといいます。人々は困惑しました。そんな洗礼を受ける人々の行列にいたのがイエス様でした。

そして、そのイエス様が洗礼を受けて祈っておられると、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」という出来事があったというのです。

今日も、イエス様の発言はありません。今日は、どんなメッセージを聞いて行けばよいでしょうか?でも大丈夫です。「天から聞こえた声」があったとありますから、これを考えていきましょう。

これは天から聞こえた神の声でしょう。そして、それは、人類に対する約束が繰り返され、実現したことを表しています。

神様の約束とは何でしょうか?それは今日読まれたイザヤ書にも語られています。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」どんなことがあっても、神様は人々を救う。というものです。

神から離れ、互いに諍いをし、憎み殺し合いさえしてしまうようになった人類です。アダムとエバの子カインとアベルからすでに、兄弟で殺人事件が起こっているのが聖書の伝えることです。「聖なる書」ですが、最初の数ページから人間の罪深さが伝えられています。そして、私たちも皆、その子孫であり、「生まれながら罪深く」と今日も、罪の告白をした通りの状態です。

3.振り返り

私たちの生き方を振り返りましょう。罪深い私たちはどうしたらよいのでしょうか?

神様は、滅ぼし去るのではなく、立ち返り救われるための呼びかけをしてきました。そしてついに、神の子が人となってこの世にあらわれ、自ら教え生きることを始められました。それがイエス様の誕生とその公生涯なのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と聞こえた神の声は、人間が堕落する前に、アダムを創られた後「はなはだ良かった」と言われた言葉を思い出します。

そして、イザヤ書の約束が果たされ、新しいことが始まってきたことを思い出しましょう。イザヤ書の先程の続きはこうです。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない」でした。この声を聴いて、「たとえ火の中水の中」をもう一度思い出しますね。

これは、このように人間が愛する人に語り掛けた言葉よりももっと昔に、天地創造をされた神様が、私たち人間に語り掛けてくれた言葉であったのです。

いよいよ、神の子の誕生と活動開始です。

「洗礼」のことも思い出しましょう。水で洗い清めるのは、多くの宗教でも行われることです。神社でも手と口を順にすすぎ清める習わしがあり、伊勢神宮に参る前に神官たちは五十鈴川に白い衣を着て入りみそぎをする儀式があるそうです。洗礼者ヨハネが施していた洗礼は、それに似たものがあるかもしれません。罪の悔い改めのためですから。しかし、私たちがイエス様によってはじめられた教会の洗礼は違います。一度死に、新しく生まれ変わる事であり、水と霊によって生まれ変わることだからです。

 一度死に生まれ変わるのですが、ここでも今日のイザヤ書をかみしめましょう。神様は、「たとえ水の中でも火の中でも私たちを守ってくれる」と約束されている方だからです。一度今までの罪深い自分は死にますが、新しく、本当の価値ある自分として産み変えてくれる。それが、教会の洗礼です。

4. 勧め 

 どんなに聖書を読み暗記しても、神様の救いはまだ遠いのです。心を決めて、神様を信じて、水の中に飛び込む覚悟ですること、それが洗礼でもあります。

神様が人々のためにこの世に生まれ、現れてくださったのです。

洗礼を受けた方は、そのことをもう一度思い出しましょう。まだの方は、どうぞ、ご相談ください。お招きします。なんといっても、私たちの神様は、たとえ火の中水の中、そして、自らの命を犠牲にするまで、私たちを赦し、愛してくださっているのです。一緒に歩んでいきましょう。